ブログ 2023/07/01

皆さんのお力で、この犯人を捕まえてください!

昨年6月29日、大分県別府市で、
死亡ひき逃げ事件が起きました。

赤信号で停止中だったバイクとスクーターの後ろから、
軽乗用車が時速100km近いスピードで
ノーブレーキで突っ込み、
バイクは50m程飛ばされ、
スクーターに乗っていた大学生は即死でした。
 
被害者は、知人のご子息でした。

一緒にひき逃げをされて
負傷で済んだ友人の証言によると、
その前に立ち寄ったショッピング施設の駐車場で、
被害者は、容疑者から「何見てんだ」というような
言いがかりをつけられていたと。
この友人が「放っておいて行こうぜ」と促し、
駐車場を後にした。
その数百メートル先で信号停止をしていた所に、
容疑者の車がノーブレーキで突っ込んで来たと。

この証言をもとに、遺族は別府署に
「故意の殺人事件じゃないですか」と
何度も訴えましたが、
別府署の交通課からは、
「容疑者から事情を聞くまでは、
 故意かどうか分からないから、
 殺人事件ではなく、交通課で交通事故として対応する」
とツレない対応をされ続けました。
 
遺族は「絶対に犯人を逮捕したい」との思いから、
イラストレータやフォトショップを習い始め、
自力でポスターやWEBサイトを制作しました。 
   
遺族が何度も
「交通事故じゃなく、殺人事件として捜査して欲しい」
「自主制作のポスターを街中に貼って欲しい」と
お願いに行っても、別府署は人手不足を言い訳に、
別府市内に1ヶ月で2枚を貼っただけ。
重い腰を上げてはくれませんでした。
(批判ではなく、事実を書いています) 
 
そして、私のところへ相談がありました。   
伝手のあった警察庁の上級官僚、
霞ヶ関の上級官僚の方などに相談をして、
頂いたアドバイスをもとに、
遺族と話し合って私的懸賞金を掛けることにして、
そのポスター制作のお手伝いをしました。
 
懸賞金を払うのは遺族なのに、 
当初、別府署は懸賞金に難色を示していました。
何度かの懇願の後、載せて良い文言について、
別府署とのやり取りがあり、ポスターが完成。
 
遺族が別府署にそのポスターを持参して、
「全国に指名手配されたのなら、
 各都道府県警に貼ってくれるようにお願いしてください!」
と頼んだところ、
「わかりました。じゃあ、ポスター46枚をください」
と返答がありました。
たった1枚のポスターを
各都道府県警の本部へ郵送すると言ったのです。
(批判ではなく、事実を書いています)

別府署の心のない発言や対応の数々が、
遺族の心の傷に塩を塗り続けていたことは、
外から見ていても明らかで、
遺族の疲労困憊ぶりに胸が痛みました。
 
「別府署にもメールはあるでしょ?
 PDFで送るから、全国の警察にメールで展開して欲しい」
と頼み込みました。
      
その後、遺族と支援する会が地道にSNSでの配信を続けていたら、
元リーゼント刑事の秋山氏らの目に留まり、
事件発生から10ヶ月後の今年4月、
ABEMA TVの千原ジュニアのニュースショーで取り上げられました。
 
その後も、同番組で追加情報が何度か取り上げられ、
視聴者からの反響が大きかったおかげで、
ついに大分県警も動き、
6月29日のNHKニュース9の全国放送で、
この事件のことが取り上げられました。
 
「大分県警では最重要未解決事件として、
 捜査一課の捜査員も加わり、
 2万2千人体制で県下でポスターを配りました」
  
おいおい…1年経ってるよ!
もう別府にも、大分にもいないでしょ!?

ブログ 2023/02/21

秩父宮ラグビー場 消滅の危機

日本ラグビーの聖地である
『秩父宮ラグビー場』が今、
消滅の危機に瀕しています。 
 
その名から「埼玉県の秩父にある」と
勘違いしている人も多いのですが、
東京メトロ銀座線の外苑前駅すぐの
「都心のど真ん中」にあります。  
 
その成り立ちを振り返ってみると、
(鹿島建設HP、京大ラグビー100周年誌デジタルコンテンツ、J SPORTS番組「ラグビー 一人語り」から引用) 
 
戦前、関東の主なラグビーの試合が行われていた神宮競技場は、
戦後、進駐軍に接収されて、
日本国民が自由に使うことはできなくなりました。 
 
1947年初め、戦後1年ちょっとしか経っていない、
まだ焼け野原の東京で、ラグビー協会の有志が集まり、
「若い後輩たちにラグビーをさせてあげたい」
「平和の象徴として、ラグビー専用競技場をつくろう」
と誓い合いました。  
 
その中に当時は稀有な、
自動車を自由に使える新聞記者がいて、
彼らが中心となり探し回って見つけた
都内10数カ所の候補地の1つが、
進駐軍の駐車場となっていた女子学習院の跡地でした。
 
しかし、ラグビー協会にはお金がありませんでした。
工事代金150万円(現在の1億円ほど)の
手付金30万円を払うことができません。 

当時、人々は食うや食わずで生活に困窮しており、
預金封鎖もされて、現金調達が難しかった。
そんな中、慶應、早稲田、明治、東大、立教の5大学OBたちが、
個人の貴金属、時計、カメラ、自宅の絨毯など、
金目のものを売りさばいてお金をつくり、
関東協会の理事長だった香山蕃が
自分の戦災保険金のすべて(5万円)を出し、
尊い結晶である浄財30万円が
手付金として鹿島組(現・鹿島建設)に払われました。 
 
8月頃から始まった工事には、
学生ラガーマンも勤労奉仕をして、
急ピッチで建設が進められました。

同年9月にラグビー協会総裁になられた秩父宮殿下が、
10月上旬の雨が降る中、
ご病身で静養されていた御殿場から工事現場を訪れて、
鹿島組の関係者に
「ラグビー協会は貧乏だから、よろしく頼む」と頭を下げられました。 
そして、同年11月、
「東京ラグビー競技場」は完成しました。
 
その後、秩父宮殿下が逝去され、
ラグビー普及へのご厚意に感謝をして、
『秩父宮ラグビー場』に改称されて、今に至ります。 
  
 
1945年終戦の後、
日本で最初に行われた公式のスポーツ試合は、ラグビーでした。
 
8月15日の終戦宣言から、
わずか1ヶ月後の9月23日、
食うや食わずで困窮していた時代に、
ユニフォームの生地、スパイクの革などの素材をかき集めて、つくり、
京大農学部のグラウンドで開催されました。
 
「何の告知もしていないのに3千人の観客が集まり、
 自由と平和が来たという人々の喜びが雪解けの水のように奔流した」
と当時の新聞記者が書き残しています。
 
また、8月に原爆が落ちた広島で、
その年の12月に最初に行われたスポーツ試合もラグビーでした。 
    
平和と自由とラグビー。
 
このような物語を持つラグビーの聖地が取り壊され、
4年後、全天候対応の人工芝のドーム型施設に
建て替えられる予定です。  
 
近くにある新国立競技場の毎年の赤字、
リーグワンの観客数の減少、
人工芝の技術進化など、
複合的で合理的な理由での決定なのでしょう。

世界ラグビー憲章には、
ラグビーが持つ人間形成に役立つ5つのコアバリューとして
「品位・情熱・結束・規律・尊重」が示されています。 
 
元気と自信をなくしている今の日本には、
ラグビーをする人が、
ラグビーを応援する人が、
そして、良いラグビー場が必要です。    
 
30年ぶりに聖地に立った日は、神々しい光が射していました。
こんな日のハイパントのボールは、光に入って束の間、消えます。
ここをつくった先人たちの想いは、新施設の関係者にも受け継がれて、
消えないようにと願っています。

ブログ 2023/02/12

拍手喝采

仕事の関係者から
『東京バレエ団特別公演 上野水香オン・ステージ』に
ご招待して頂きました。 

上野水香さんの肉体、所作の優美さ、
バレエの華やかさ、氣迫もさることながら、
一番驚いたのは、観客の拍手の大きさ、その長さでした。 

私がこれまでに体感した中で
最も拍手が大きかったのは、
1996年に以前の国立競技場で開催された
三大テノール公演でした。
ドミンゴが歌うのを嫌がっていたパバロッティを説得し、
美空ひばりの「川の流れのように」を歌い出すと、
6万人の観客が地鳴りのような歓声をあげ、
途中から観客も歌い出し、涙し、
歌が終わると拍手が沸き起こりました。
それは、激しいスコールのような、すざましい音でした。
  
拍手は、無償で与えることができる報酬です。
受け取った方はものすごく嬉しいものです。
しかし、日本人はなぜか、あまり拍手をしません。
私は、拍手をする時は、大きな音が出るように、
心を込めて手を打つように心がけています。

上野水香さんを観に来た2300人は、
6万人の観客がいた三大テノールを思い出す大きさで、
しかも、とても長く拍手をしていました。
カーテンコールが10数回あり、一度も拍手が止まず、
私も負けじと拍手をしたので、
終演後は汗だくで、手が腫れていました。
 
バレエを習っていると推察される
背筋がシャンと伸びた子供たちが観客に多くいたのも驚きでした。
あの子供たちは拍手をする習慣を身につけるでしょう。 
上野水香さん、東京バレエ団のファンは、
多くの報酬を与えている素晴らしいファンでした。