ブログ 2021/10/31

第1回全国高校 軽音楽部大会『スニーカーエイジ』関東甲信越地区大会の審査員を終えて

ご縁があり、本日、
第1回全国高校 軽音楽部(バンド)の大会
『スニーカーエイジ』の
関東甲信越地区大会の審査員を務めました。
 
関東地区では7年目ですが、
関西では42年前から開催されている
歴史ある軽音楽部の大会です。 
 
野球部やサッカー部と違って、
軽音楽部には全国規模の演奏会がありませんでしたが、
ついに今年から全国大会となり、
テレビ放映もされる予定です。
 
高校野球が甲子園、サッカーが国立、
ラグビーが花園を目指すのと同じで、
この大会にかける学生たちの意気込みは、
もの凄いものがあります。
    
全身全霊で楽器を演奏し、
魂を込めて唄う学生たちの姿は、
無垢で刹那ゆえに眩しく輝いており、
何度も涙がこぼれました。
 
本番前のリハーサルでは
熱心に修正箇所を指導して、
本番中にはステージ上の学生たちと一心同体で
客席にて体を揺らして、
演奏終了でガッツポーズをする顧問の先生。
学生たちとの深い信頼関係を見て、また涙。
ここには、
大人と若い世代との間に断絶がありません。
 
日本が変わるチャンスなのに、
今日の選挙も投票率が伸びなかったのは、
今の若者たちが大人社会へ絶望し、
今の大人がつくっている社会に期待しない、
という断絶が起きているからだと思います。
 
  
それはさておき。

28年前の大ヒット映画『フラッシュダンス』
のクライマックスで、
ジェニファー・ビールス演じる女性ダンサーが
オーディションを受けます。
最初、中年の審査員たちは、
その踊りを見ようともしません。
しかし、彼女が踊りのやり直しを始めた後、
全身から放たれるその圧倒的なエネルギーに
審査員たちは目を奪われ、心を掴まれ、
音楽のリズムに合わせて足を踏み鳴らし、
拍手を送りはじめます。
 
今日、神奈川県立鶴嶺高校の演奏中に、
それまでは難しい顔をして、
または、得点審査のために真剣に聴いていた
審査員の中年オッサン連中(私も含めて)が、
楽曲のリズムに合わせて足を踏み鳴らし、
首を、体を、揺すり始めたのです。  
映画と同じ光景でした。
        
音楽の力は偉大です。     
音楽は、落ち込んでいる時には、
癒してくれて、楽しい気分に変えてくれます。
元気が出ない時には、鼓動をくれます。
絶望の淵に追いやられた時には、
心に火をつけてくれます。 
 
今日の出場者の中で、
大人になって音楽で食べている人は
ほとんどいないでしょう。       
    
しかし、彼らが音楽に出会えて、
生きる力をもらったように、
大人になった時には、
今度は彼ら自身が、
“誰かの音楽”になって欲しいものです。
     
 
7年間、関東での大会運営を地道に続けながら、
北海道、東北、沖縄地区大会と規模を広げ、
各地でスポンサー探しに奔走されて、
ついに全国大会を実現。
バンド音楽と出会えた全国の若者にとって
希望と夢の場所を創った
関係者の方々へ敬意を表します。

そして、
12月26日に大阪で開催される
初の全国大会の成功と、
関東甲信越の代表として出場する
厚木高校、鶴嶺高校、立花学園高校が
さらに磨きのかかったパフォーマンスで、
全国大会の観客、審査員たちの
体と心を揺り動かすことを
心より祈っています! 
  
今、スニーカーエイジ事務局では、
「第2回全国大会の冠スポンサー」を募集しています。
軽音楽部は、野球部、サッカー部に次ぐ
部員数の多い部活と言われています。
そして、企業が直接アプローチするのが困難な
教師、学校関係者、生徒の保護者にもアプローチできます。
企業としては、音楽を愛する高校生たちへの社会的支援と
未来の顧客である高校生へのマーケティング活動を両立できる
稀有なチャンスです!
条件を知りたい企業様は、ぜひ、お声がけください。

ブログ 2021/08/29

コンテライター佐々木さんが急逝

コンテライターの
佐々木政明さんが急逝されました。

さまざまな企業にプレゼンした
私の企画の95%以上、
25年間で5,000本以上のコンテを、
佐々木さんに描いてもらいました。

佐々木さんは、私の職業人生の一部でした。
「心にぽっかりと穴が開く」という表現がありますが、
言い得て妙です。

佐々木さんとの思い出を書くことで、
この穴が少しは埋まるのかどうかは分かりません。
しかし、表には出ない凄い才能を持った人がいたことは
書き残しておきたいと思います。

電通のクリエイティブ局で働き出して2年目の時でした。
先輩の佐藤由紀夫さんの下に付いて、
CMプランナーの勉強をさせてもらっている時に
佐々木さんと出会いました。

当時はまだ回線速度が遅く、
メール添付で絵や写真を送ることができない時代です。
企業用FAXの性能も良くなかったので、
コンテライターさんはオフィスに絵を持参されていました。
佐々木さんは、猟師のような、熊のプーさんのような、
両方をミックスしたような体型と顔と声でした。

そもそも由紀夫さんは絵が上手で、
企画内容と絵のトーンが合っており、
いつもは自分の絵でプレゼンをされていました。
しかし、たかの友梨のプレゼン時には、
佐々木さんに発注しました。

上がってきたコンテの絵に目が奪われました。
コマの展開に合わせて、
登場人物が、背景が
生き生きと動いていただけでなく、
その場の空気が描かれていたから。

由紀夫さんが佐々木さんに発注した理由が
わかりました。
元のコンテよりも企画が面白く見えました。

何よりも、
企画内容を理解して描いていることが
瞬時にわかりました。

他のコンテライターさんたちと
仕事したこともありますが、
何度説明しても企画内容を理解せずに描くので、
やり直しになることがほとんどです。

佐々木さんには、
「内容を理解して、企画のツボがわかる」
異色の才がありました。

出会って2〜3年が経つと、
企業用FAXがきれいな画質に進化したので、
佐々木さんは五反田のオフィスを閉め、
地元の相模原に家を建て、
今で言うリモートワークをするようになりました。
そのため、
すっかり顔を合わすことがなくなりました。

その後、私は外資系のオグルヴィへ転職。
オグルヴィの悲願であった
日本のナショナルクライアントを獲得するために、
次から次へと競合プレゼン、仕掛けプレゼンをし続けました。
しかし、現実は厳しく、日本の大企業では
外資系広告会社は相手にされませんでした。
企画→打ち合わせ→企画→プレゼンの
サイクルの間には撮影や編集もあるので、
土日もなく、寝る間もない時期がありました。

デスクで絵コンテを書く充分な時間は取れず、
移動中に企画を思いついたら、
字コンテもない状態のまま、
佐々木さんに電話で、
口(くち)コンテで企画を説明し、
先に絵を発注したこともあります。
絵を発注した後、
夜中に字コンテや下描きコンテをつくるという
逆の手順で仕事を進めるのです。
そうしないと、
プレゼンまでに佐々木さんの絵が
間に合わないからです。

口コンテ発注に、
佐々木さんも最初は呆れていましたが、
私の無謀な挑戦を応援してくれていた佐々木さんは、
完璧に応えてくれました。

そして、佐々木さんの画力に助けられて、
日本生命、サントリー、キッコーマン、
J:COM、東京スター銀行、日東紅茶など、
それまでオグルヴィには皆無だった
ナショナルスポンサーを
獲得することができたのです。

さらに、その後。
私がオグルヴィ東京を辞めて、
アジア太平洋地区を統括する
オグルヴィ・アジアパシフィック(シンガポール)に
完全転籍する際に、会社が壮行会を開いてくれました。
佐々木さんは「海外での挑戦を応援します」と、
わざわざ相模原から顔を出してくれました。
ご尊顔を拝見するのは、10年ぶりでした。

海外にもコンテライターはいます。
何人かと仕事をしました。
しかし、私の企画とは絵のトーンが合わなかったので、
海の向こうから、
また佐々木さんに発注するようになりました。

ある日、私を引っ張ってくれた会長のKhaiさん
(その後、アジア人初のNY本社グローバル会長になる)が
プレゼン前の私のコンテを見て、
「Brilliant!」と叫びました。
その内容に興奮したのではなく、
「この画力はすごい!」
「このイラストレーターをOgilvyで独占契約しろ」と。

人に歴史あり。

佐々木さんは学生の頃に、
相模原で絵画教室に通っていました。
その時の先生が、後に、奥様になります。

結婚後は、まず奥様がコンテライターをはじめ、
奥様に尻を叩かれて、
佐々木さんは食べるために、
嫌々、コンテライターを始めたとのこと。
その後、佐々木さんは、奥様の籍に入り、
名前が「城野」に変わっていました。

奥様は12歳年上でした。
晩年は、寝たきりになられて、
佐々木さんがご自宅で介護をされていました。
夕方になると食事をつくり、
2時間かけて奥様に食べさせるので、
我々も発注の電話は夕方を避けるようにしていました。

今年2月に奥様が天国へ旅立たれ、四十九日法要の後に、
佐々木さんを元気付けようと思い、
相模原へ行って、一緒にご飯を食べました。
壮行会以来だったので、
ご尊顔を拝見したのは14年ぶりでした。

かなり痩せていました。
「ほっとしました」
「ボクも年だから、絵を描くスピードが落ちてきました」
「今年の夏は、うちの庭にバーバキューしに来てください」
そんなことを言っていました。

佐々木さんは、
その食事会に息子さんを連れて来られました。
息子さんにお会いするのは初めてで、
なぜ、息子さんを連れて来たのか分かりませんでした。
息子さんも「なぜ、この食事会に自分が連れて来られたのか」
理解できなかったと言っていました。

それから4ヶ月後の8月3日15時30分過ぎ。
撮影前のタレントと衣装合わせをしていた時に、
佐々木さんから着信がありました。
普段は、こういう場では電話に出ません。
しかし、企画を読める佐々木さんが
質問してくることは滅多にないので、
「珍しいな」と思い、電話に出ました。

取り乱した息子さんの声でした。
「父が亡くなりました。
発注を頂いた案件が納品できなくなりました」

自宅で一人暮らしだった佐々木さん。
8月2日未明、心臓発作でした。
翌日の昼に、息子さんが発見しました。

佐々木さんはこれまで、
スケジュールに穴を開けたことがありません。
息子さんと私を合わせた理由がわかりました。

通常は、私の部下がコンテ発注をするので、
佐々木さんとは直接話しをすることはありません。
3月の食事会以降も発注をしていましたが、
1度も会話はしていませんでした。
しかし、この1週間前の土曜、
たまたま企画の修正を思いつき、
直接、佐々木さんへ電話しました。
「この仕事が落ち着いたら、バーベキューしに行きますね」
「お待ちしています」と会話したばかりでした。

企画が読める佐々木さんは、
発注した時に、思わず声を出して笑うことがありました。
25年間、それはほとんどありませんでしたが、
佐々木さんが笑った時には、
「佐々木さんOKが出た!」と自信になりました。
実際、あるプレゼンで、宣伝部長に
「この企画は面白いの?」と訊かれて、
「コンテライターさんが笑った企画です!」
と答えたこともあります。

佐々木政明さん、本当は、城野政明さん。
その戒名は『禅定政尚信士』。

とても綺麗な鈴を鳴らすお坊さんと
告別式の後に談笑している時に教えてもらいました。
仏教では、すべての人は「釈迦の弟子」として
あの世に行くために、戒名を持つそうです。

佐々木さん、
長年、ありがとうございました。
佐々木さんの画力が下駄を履かせてくれて
採用された企画が多数あります。
私の現在があるのは、佐々木さんのおかげです。

もう締め切りに追われることもないから、
天国で、大好きだった奥様と
趣味のカメラを存分に愉しんでください。

私がそちらに行けたら、
すぐにバーベキューに伺いますね!

そして、行けるように、
残りの仕事を精一杯やります。
佐々木さんが思わず声を上げて笑うような仕事をします。

佐々木さんの遺影です。