ブログ 2021/08/29

コンテライター佐々木さんが急逝

コンテライターの
佐々木政明さんが急逝されました。

さまざまな企業にプレゼンした
私の企画の95%以上、
25年間で5,000本以上のコンテを、
佐々木さんに描いてもらいました。

佐々木さんは、私の職業人生の一部でした。
「心にぽっかりと穴が開く」という表現がありますが、
言い得て妙です。

佐々木さんとの思い出を書くことで、
この穴が少しは埋まるのかどうかは分かりません。
しかし、表には出ない凄い才能を持った人がいたことは
書き残しておきたいと思います。

電通のクリエイティブ局で働き出して2年目の時でした。
先輩の佐藤由紀夫さんの下に付いて、
CMプランナーの勉強をさせてもらっている時に
佐々木さんと出会いました。

当時はまだ回線速度が遅く、
メール添付で絵や写真を送ることができない時代です。
企業用FAXの性能も良くなかったので、
コンテライターさんはオフィスに絵を持参されていました。
佐々木さんは、猟師のような、熊のプーさんのような、
両方をミックスしたような体型と顔と声でした。

そもそも由紀夫さんは絵が上手で、
企画内容と絵のトーンが合っており、
いつもは自分の絵でプレゼンをされていました。
しかし、たかの友梨のプレゼン時には、
佐々木さんに発注しました。

上がってきたコンテの絵に目が奪われました。
コマの展開に合わせて、
登場人物が、背景が
生き生きと動いていただけでなく、
その場の空気が描かれていたから。

由紀夫さんが佐々木さんに発注した理由が
わかりました。
元のコンテよりも企画が面白く見えました。

何よりも、
企画内容を理解して描いていることが
瞬時にわかりました。

他のコンテライターさんたちと
仕事したこともありますが、
何度説明しても企画内容を理解せずに描くので、
やり直しになることがほとんどです。

佐々木さんには、
「内容を理解して、企画のツボがわかる」
異色の才がありました。

出会って2〜3年が経つと、
企業用FAXがきれいな画質に進化したので、
佐々木さんは五反田のオフィスを閉め、
地元の相模原に家を建て、
今で言うリモートワークをするようになりました。
そのため、
すっかり顔を合わすことがなくなりました。

その後、私は外資系のオグルヴィへ転職。
オグルヴィの悲願であった
日本のナショナルクライアントを獲得するために、
次から次へと競合プレゼン、仕掛けプレゼンをし続けました。
しかし、現実は厳しく、日本の大企業では
外資系広告会社は相手にされませんでした。
企画→打ち合わせ→企画→プレゼンの
サイクルの間には撮影や編集もあるので、
土日もなく、寝る間もない時期がありました。

デスクで絵コンテを書く充分な時間は取れず、
移動中に企画を思いついたら、
字コンテもない状態のまま、
佐々木さんに電話で、
口(くち)コンテで企画を説明し、
先に絵を発注したこともあります。
絵を発注した後、
夜中に字コンテや下描きコンテをつくるという
逆の手順で仕事を進めるのです。
そうしないと、
プレゼンまでに佐々木さんの絵が
間に合わないからです。

口コンテ発注に、
佐々木さんも最初は呆れていましたが、
私の無謀な挑戦を応援してくれていた佐々木さんは、
完璧に応えてくれました。

そして、佐々木さんの画力に助けられて、
日本生命、サントリー、キッコーマン、
J:COM、東京スター銀行、日東紅茶など、
それまでオグルヴィには皆無だった
ナショナルスポンサーを
獲得することができたのです。

さらに、その後。
私がオグルヴィ東京を辞めて、
アジア太平洋地区を統括する
オグルヴィ・アジアパシフィック(シンガポール)に
完全転籍する際に、会社が壮行会を開いてくれました。
佐々木さんは「海外での挑戦を応援します」と、
わざわざ相模原から顔を出してくれました。
ご尊顔を拝見するのは、10年ぶりでした。

海外にもコンテライターはいます。
何人かと仕事をしました。
しかし、私の企画とは絵のトーンが合わなかったので、
海の向こうから、
また佐々木さんに発注するようになりました。

ある日、私を引っ張ってくれた会長のKhaiさん
(その後、アジア人初のNY本社グローバル会長になる)が
プレゼン前の私のコンテを見て、
「Brilliant!」と叫びました。
その内容に興奮したのではなく、
「この画力はすごい!」
「このイラストレーターをOgilvyで独占契約しろ」と。

人に歴史あり。

佐々木さんは学生の頃に、
相模原で絵画教室に通っていました。
その時の先生が、後に、奥様になります。

結婚後は、まず奥様がコンテライターをはじめ、
奥様に尻を叩かれて、
佐々木さんは食べるために、
嫌々、コンテライターを始めたとのこと。
その後、佐々木さんは、奥様の籍に入り、
名前が「城野」に変わっていました。

奥様は12歳年上でした。
晩年は、寝たきりになられて、
佐々木さんがご自宅で介護をされていました。
夕方になると食事をつくり、
2時間かけて奥様に食べさせるので、
我々も発注の電話は夕方を避けるようにしていました。

今年2月に奥様が天国へ旅立たれ、四十九日法要の後に、
佐々木さんを元気付けようと思い、
相模原へ行って、一緒にご飯を食べました。
壮行会以来だったので、
ご尊顔を拝見したのは14年ぶりでした。

かなり痩せていました。
「ほっとしました」
「ボクも年だから、絵を描くスピードが落ちてきました」
「今年の夏は、うちの庭にバーバキューしに来てください」
そんなことを言っていました。

佐々木さんは、
その食事会に息子さんを連れて来られました。
息子さんにお会いするのは初めてで、
なぜ、息子さんを連れて来たのか分かりませんでした。
息子さんも「なぜ、この食事会に自分が連れて来られたのか」
理解できなかったと言っていました。

それから4ヶ月後の8月3日15時30分過ぎ。
撮影前のタレントと衣装合わせをしていた時に、
佐々木さんから着信がありました。
普段は、こういう場では電話に出ません。
しかし、企画を読める佐々木さんが
質問してくることは滅多にないので、
「珍しいな」と思い、電話に出ました。

取り乱した息子さんの声でした。
「父が亡くなりました。
発注を頂いた案件が納品できなくなりました」

自宅で一人暮らしだった佐々木さん。
8月2日未明、心臓発作でした。
翌日の昼に、息子さんが発見しました。

佐々木さんはこれまで、
スケジュールに穴を開けたことがありません。
息子さんと私を合わせた理由がわかりました。

通常は、私の部下がコンテ発注をするので、
佐々木さんとは直接話しをすることはありません。
3月の食事会以降も発注をしていましたが、
1度も会話はしていませんでした。
しかし、この1週間前の土曜、
たまたま企画の修正を思いつき、
直接、佐々木さんへ電話しました。
「この仕事が落ち着いたら、バーベキューしに行きますね」
「お待ちしています」と会話したばかりでした。

企画が読める佐々木さんは、
発注した時に、思わず声を出して笑うことがありました。
25年間、それはほとんどありませんでしたが、
佐々木さんが笑った時には、
「佐々木さんOKが出た!」と自信になりました。
実際、あるプレゼンで、宣伝部長に
「この企画は面白いの?」と訊かれて、
「コンテライターさんが笑った企画です!」
と答えたこともあります。

佐々木政明さん、本当は、城野政明さん。
その戒名は『禅定政尚信士』。

とても綺麗な鈴を鳴らすお坊さんと
告別式の後に談笑している時に教えてもらいました。
仏教では、すべての人は「釈迦の弟子」として
あの世に行くために、戒名を持つそうです。

佐々木さん、
長年、ありがとうございました。
佐々木さんの画力が下駄を履かせてくれて
採用された企画が多数あります。
私の現在があるのは、佐々木さんのおかげです。

もう締め切りに追われることもないから、
天国で、大好きだった奥様と
趣味のカメラを存分に愉しんでください。

私がそちらに行けたら、
すぐにバーベキューに伺いますね!

そして、行けるように、
残りの仕事を精一杯やります。
佐々木さんが思わず声を上げて笑うような仕事をします。

佐々木さんの遺影です。

ブログ 2021/08/24

タクシーCM 取材記事が掲載

ベルフェイスさん初のCM
「照英さんのヒラメ筋」が
タクシーCMから始まり、
事業の大成功で
テレビCMへと出世したおかげで、
その後、初めてCMを制作する企業さん数社を
担当することができました。
 
そのすべての企業で業績が伸びたため、
コマフォト8月号で、
注目メディア「タクシーCMの先駆者」のように
取材して頂きました。
(大袈裟で、お恥ずかしい限りです)
    
      
今、タクシーCMは、百花繚乱状態か。
いや、玉石混淆だろ。
いやいや、枯れ木も山の賑わいじゃないか。
とんでもない、粗製乱造だよ。
と、さまざまに言われています。

私は、最後の意見に賛成です。
    
3年程前までは、
静止画が中心の安っぽいイメージのメディアでした。
当初はスタートアップ企業が中心でしたが、
じわじわと大企業も、
タクシーCMを放映しています。  
今後、タクシーCMのメディア価値は
ますます高まっていくと思います。  
  
  
嫌らしい言い方になってしまいますが、
弊社には1,000本以上のCM制作経験値があり、
『タクシーCMの成功法則』も見つけました。

広告コミュニケーションを成功させたい企業様は、
ぜひ、17へお声掛けください!

ブログ 2021/08/22

エステWAM 13年ぶりのCM

西日本最大のエステグループ
『エステWAM』が、
久しぶりにCMのオンエアを開始。     
コロナ禍での要請で、
13年程前に制作した
当時、大反響があったCMを改訂。
 
制作会社、キャスティング会社、
メディア各社のご協力を得てオンエアが実現。  
このCMの出演者である
岩松了さん、山野海さんは、
当時から今も、ドラマで舞台で、
名脇役として大活躍されています。
 
表現の世界は、
主人公を引き立てる名脇役がいるかどうかで
その説得力が決まります。
(たぶん現実の世界も)
 
大学の教授、各種セミナーの講師をしていると、
早く成功することが善と信じる若者から
焦り気味の相談を多く頂きます。
 
偉そうに、すみません。 
SNSでのつながり
(本当は深くつながっていない)を見すぎて、
焦っている若者にお伝えしたい。
 
まず、
光を見る時には、その陰も見ること。
光の強さと陰の濃さは比例しています。
 
そして、    
主人公だけが、成功者ではありません。
自分の仕事を愛して、
上手くいかない時も、
丁寧に、魂を込めておこなっている人は、
自分の人生の主人公です。
周りの人は、ちゃんと見ています。


当時の制作陣、俳優陣に感謝。

ブログ 2021/08/06

語り継ぐ日

76年前の8時15分、
広島で、生きている人の頭の上に
原子爆弾が落とされました。
 
人間が人間に行った
この愚かな行いの悲惨さ、恐ろしさを
肉声で語り継げる方々が極めて少なくなっています。
遠くない将来、ゼロになるでしょう。
       
数年前には、
沖縄ひめゆり平和記念資料館でも
元ひめゆり学徒の方による
語りの時間が無くなりました。 
         
風化させないためには、
それを聴いた者が語り継ぎ、
核兵器がある限り、
今も起こり得ることと恐れ、
怒りを持ち続ける以外の道はありません。

先日、東京の空を6機のブルーインパルスが飛びました。
今、戦争になったら、
あんな戦闘機で攻撃されたら、
東京はあっという間に焦土と化すでしょう。
                      
17では、毎年、今日と9日は、
先の戦争と原子爆弾ついて
仕事仲間と語ることにしています。     
    
少なくとも我々が生きている間は、
同じ愚行が繰り返されないように
勉強して、語り継いでいきたいと思います。
                               
今朝、東京では、
警報音が鳴り響いていないことに、
防空壕に逃げ込まなくて良いことに、
青い空に映える積乱雲が自然発生であることに、
感謝したいと思います。