高校では野球部への入部が決まっていた。
小学1年から中学卒業まで9年間野球をやっていたし、叔父が野球部の監督とマブダチで、「『甥が行くから頼むな』と言っておいたぞ」と受験する前から頼み込んでいた。中学の野球部の先輩たちが、合格掲示板が張り出された日から「春休みから練習に来いよ!一緒に甲子園へ行こう!」と誘いの電話が何度も掛かってきていた。
しかし、私は野球部には入らなかった。
「なんで入らんとか?」と先輩たちに詰め寄られて、「坊主頭にせんといけんのが嫌です」と答えた。本当は髪型が理由ではなかった。
連覇を続ける新日鐵釜石のスタンドオフ松尾雄治の「誰にも触らせない美学のプレー」を見て、「松尾」という姓はラグビー向きかもしれないと思い始めていた中学3年の秋、ドラマ「スクール☆ウォーズ」が始まった。
梅宮辰夫と和田アキコが夫婦という設定に一番驚いたが、山下真司演じる監督が「これからオマエたちを殴る」と言って、泣きながら殴ったシーンにも驚きながら、私の中で何かが引っかかった。
当時の運動部では、大した理由もなく指導者に殴られるのは当たり前で、私は監督にビンタされ、鼓膜が破れたこともあった。中学のサッカー部では、コーチに顔面を膝蹴りされて、鼻骨が折れた同級生もいた。私が殴られたり、ケツバットをされた時、監督は誰も泣いていなかった。
ドラマの中では、和田アキ子が止めに入ろうとした。梅宮辰夫が「先生の拳を見ろ。涙で濡れているじゃないか」と言って止めた。ドラマの演出と思っていたら、当の山口先生も本当に泣きながら殴っていたと雑誌の記事で読んだ。その時、山口先生の写真を見て、ラグビーには何か熱いものがありそうだと直感がささやいた。
ドラマを見ていた私と野球部の友人は野球一筋でラグビーを知らなかった。「川浜一のワルが入部するとか、ラグビーありえねぇ〜」などと文句を言いながらも、毎週欠かさずに時間になるとテレビの前にいた。イソップが出て来て、ドラマがどこまで事実を下書きにしているのか分からなくなってきた年明けに、松尾雄治が日本選手権7連覇をした。その2ヶ月後にドラマの中では、無名の弱小高校だった川浜高校が全国優勝を遂げ、山下真司は「泣かせてください!」と言いながら号泣した。その後、映像で見た伏見工業の山口先生は、もっと泣いていた。
1ヶ月後、ドラマに文句を言い合っていた野球部の友人と私は同じ高校に進学し、ラグビー部に入っていた。そして知る。ラグビーには人を夢中にさせる熱い何かがあることを。
「スクール☆ウォーズ」のおかげでラグビーに出会ったことは、私にとって大きな分岐点であった。ラグビーで得た体力、準備した通りにはならない試合中の瞬時の判断力、レフリーや相手選手への敬意、大敗していても最後まで全力でプレーする精神性、すべてが仕事をする上で生きてきた。もし、山口先生が無名だった伏工を7年で日本一にしていなければ、ドラマは制作されていない。だとすると、私はラグビーをしていなかったはずだ。
そうすると、4年前に東芝ブレイブルーパス東京のブランディングの依頼も来ていないし、テレビの中で見ていた雲の上の存在だった薫田真広さんに提案する機会も、日本一になるためには「すべてに手を抜かないこと」という原理原則を聴くこともなかったし、「猛勇狼士」「接点無双」という言葉が世の中に出ることもなかったし、武田双雲さんに揮毫を依頼することも、三谷幸喜映画でお馴染みの荻野清子さんにチーム歌を書いてもらうこともなかったし、試合演出という立場で最終戦に負けてチームの社長とグラウンド上で悔し泣きをした翌年に、チームが14年ぶりに日本一になって再び泣きながら抱き合って喜ぶこともなかった。
重度のヘルニアが発症して左足が麻痺するくらい、シーズン中のハードな仕事は中年の肉体には堪えるが、消えかけていた自分の中の熱い何かが蘇ったのも、ラグビーが持つ不思議な魔力のおかげだ。すべての始まりは、山口先生ということになる。松尾雄治さんとは話をする機会があり、お礼が言えた。山口先生にはお会いできないままだった。
「山口先生、ラグビーに出会わせていただき、ありがとうございました」
