溝女を振り切った我々は、急いで公衆電話を探した。
しかし、通行人がほとんど通らない抜け道沿いには一台もなかった…。
Uターンして、唯一、明かりの点いていた小さな工場に戻った。
ライオンのたてがみになった友人は、
「アカン、あれは人間やない。関わらんほうがええ」
を連発していた。
本当に人間ではないかもしれない。
子どもの頃に流行った「口裂け女」伝説を思い出し、背筋に冷や汗が流れた…。
100mを6秒で走る女。
長い黒髪が水平になるほどのスピードで走る溝女の姿が鮮明にフラッシュバックした。
何の工場かは分からなかったが、
私たちは入口のガラス扉をノックした。
卓球のラケットを持ったトルコ人労働者が出てきた。
この地域には男性はトルコ系、イラン系、女性はフィリピン系の外国人労働者が多く住んでおり、
私たちにとっては彼らは日常の風景だった。
状況を説明すると、
「分かったよ。上に社長がいるから呼んでくるよ」
と流暢な日本語で応じてくれ、階段を駆け足で上がって行った。
しかし、待てど暮らせど、大声を上げて呼ぼうとも、
社長という人物どころか、一向に誰も現れなかった…。
痺れを切らした我々は階段を上がって行った。
2階の扉を開けると、そこはレクリエーションルームらしく、
大音量の音楽をBGMに、さっきのトルコ人が仲間たちと卓球に熱中していた。
我々を見た途端、
「あっ、ゴメン、忘れてたっ!」
と、慌てて階上の部屋へと走って行った。
すぐに日本人の中年男性の社長さんが現れた。
状況をかいつまんで説明し、電話を借りた。
最寄りの警察署へ状況を詳細に伝え、緊急の保護を要請した。
毛布に身を包んだ人柄の良さそうな社長さんと共に、
私たちは小雨になった現場へ戻った。
溝女は消えていた。
側溝にもハマっていなかった。
やはり人間ではなかったのか?
間もなく警察が来て、我々はオオカミ少年になってしまうのか…。
その時、社長さんが叫んだ。
「あそこだ!」
暗闇に目を慣らし、よく見つめると、倉庫のような建物の階段の下、
溝女らしき人物が横たわっていた。社長さんが近づこうとしたので、我々は止めた。
「危険です!」
「だって、死んじゃうぞ。あんな格好してたら…」
あんな格好?
溝女は服を脱ぎ、上下とも下着姿になっているとのこと。
我々にはうっすらとシルエットしか見えない…。
暗視スコープをつけているような視力だ。
社長さんを先頭に、我々は近づいた。
「おい、大丈夫かね?」
「…あんっ? オマエもフジスーパーか!?」
社長は、この発言の意味を求めるような表情で我々を振り返った。
我々は欧米人のように両手を広げ、首をすくめた。
「意味不明です…」
生きていることを確認でき、社長さんも危険を感じたらしく、
警察が来るまで離れた場所から監視することにした。
しかし、待てど暮らせど、警察はやって来なかった。
卓球でもしているのだろうか…。
かなりの時間が経ち、暗闇に2つのライトが見えた。
来たっ!
そのライトが近づいて来て、我々は驚いた。
そのライトはパトカーのものではなく、
2人の制服警官が2台の原付バイクでやって来たのだ。
原付バイクで、どうやって保護するの!?
警官の一人が通報者である我々に形式的な事情聴取をはじめたので、
「きちんと状況を説明したのに、どうして車ではなく、原付バイクなのか?
バイクでどうやって保護するつもりなのか?」
と尋ねてみた。
バツの悪そうな表情を浮かべ、
「今日はすべての車両が出払っている」
と子供だましの言い訳をした。
もう一方の警官は、溝女に聴取をしていた。
我々の聴取が終わりかけた、その時、
「逃げたっ!」
溝女担当の警官が叫んだ。
休息から目覚めた溝女が土手沿いを走りだし、警官が慌てて追いかけ始めていた。
我々の担当警官が振り返り言った。
「最近の不祥事続きで、我々の捜査が問題視されてるんだよ。
今回の相手は女性だし、ああいう格好だから、
後になって保護の時に性的なことをされたと言われても困る。
悪いけど、証人になってよ」
当時、この県警は、取り調べの最中に被害者の女性に性的行為をした事件が
たて続けに明るみになり、日本一最低な警察として連日報道でバッシングを浴びていた。
「付いて来て!」
その警官は有無を言わせず我々に懐中電灯を渡し、駆け出した。
彼らの進路を照らすように求められ、我々は最後尾から追いかけた…。
先頭を行く溝女は、野人ゆえに急な土手を軽快に乗り越え、
懐中電灯の光を振り切り、闇夜の住宅街へと消えて行った…。
確保係の警官2名と照明&証明係の我々2名はペアを組んで2チームに分かれて、
外灯のない暗い住宅街を捜索することになった。
「いたぞっ!」
そぼ降る雨の中、静かな住宅街に警官の声が響いた。
そして、これは、これから起こる事件の前段でしかなかった…。
(つづく)