スポンッ!
再び、見事に溝にはまっていた女性を救出し、脇に座らせた。
「大丈夫ですか?」
「オマエら、フジスーパーの男か!?」
なぜか、さっき我々が買い物をしたスーパーの名を女性が叫んだ。
「違います。近所の学生です」
「そうか…」
「住まいはここから近いのですか?」
「オマエら、フジスーパーか!?」
「違います」
「帰ろうや。この人、ちょっとヘンやで…」
友人が耳元で囁き、私の腕を引っ張って、女性から離した。
2人で対応策を協議した。
僕らの手には負えない。
かといって、このまま放置するのも危険だった。
この暗い抜け道を走る車は例外なくスピードを出す。
唯一の例外は彼の車だった。
スピードを出さないのではなく、オンボロゆえに、出なかった…。
警察に保護を求めることに決め、
振り返ると、溝女は消えていた。
「またかよ…」
しかし、今度は溝にはハマっていなかった…。
なんと、道路の中央に出て、雨に向かって顔を上げて踊っていた。
千鳥足だったが、クラシック系の大きな踊りだった。
すべてが不釣り合いだったが、見とれてしまう優雅さがあった。
ジーン・ケリーの「雨に唄えば」を見る度、聞く度に、
私はこの溝女の踊りを想い出してしまう…。
忘れたい記憶ほど、忘れられないものだ。
「危ないですよ!」との我々の度重なる忠告には全く耳をかさず、
溝女は路上を縦横無尽に気持ち良さそうに踊り続けた。
この間、奇跡的に車が一台も通らなかった。
通っていたら、悲惨な光景の目撃者になっていただろう。
「かなりおかしいで、あの人。関わらんほうがええで」
私たちは100mほど離れた所に止めていたモスグリーン車に戻り、
助手席側から乗り込んだ。
当時は携帯電話がない。
(厳密にはあったが、まだ肩に掛ける大きなショルダーバッグほどのサイズであり、
バイト先の大工の親方のそれは30万円以上だった)
近くの公衆電話から警察へ連絡するしかない。
なかなか掛からないエンジンがやっと掛かり、
緩やかな登り坂へと車を発進させた。
走り始めて20mくらいだった。運転する彼の後方、後部座席の窓に何かを感じた。
コルセットで固定された首は回らないので、上体ごと回してそちらを見た。
「アアアーッ!」
溝女が長い黒髪を振り乱しながら、もの凄い形相で、この車を追いかけてきたのだ。
浦和レッズの野人岡野のような豪快な走りだ。
ついさっきまで、100m以上後ろで優雅に踊っていたのに。
さっきまでの千鳥足がウソのように、ともかく尋常じゃない速さだった。
その後、日本代表として活躍する岡野選手がグランドを走り回るのを見る度に、
とてつもない恐怖を感じていたのは世界でも我々2人だけだろう。
「なに!? どうしたん!?
うわアアアーッ!!!」
運転していた彼は、運転席の真横まで迫って来たところで野人溝女を目撃。
私の叫び声をBGMに、ガラス1枚を隔てただけの距離での目視。
我を失い、思いっきりアクセルを踏み込んだのは自然なことだった。
チュイイイイイーンンン!
車は唸りをあげた。早く逃げたいのだが、全身を襲う恐怖は、
マニュアル車であることも、ギアチェンジも忘れさせていた。
ギアが1速のままでは、さほどのスピードアップにはならなかった。
溝女は並走し続けた。
「ギア!ギア!」
彼は我に返り、ギアを2速へ、3速へと入れた。
ほどなく車はスピードをあげ、野人溝女は後方へと置き去りにされた。
後にも先にも、この時だけだ。人間の髪の毛が逆立つのを見たのは。
当時は坊主ではなかった彼の髪の毛は、
ライオンのたてがみのように直立していた。
そして、これは、これから起こる事件の導入部分でしかなかった…。
(つづく)