ブログ 2021/02/03

大恩人 矢谷健一さんを偲ぶ

人間の生は、出会いと別れの間にあります。 

誰かと出会えば、
いつか必ず、別れもやって来ます。 
そのことを意識して大切な人と接していたら、
人間関係は違ってくるのではないでしょうか。

昨年7月、私は、大恩人のおふたりと
今生では会えなくなってしまいました。
  
一人は、岡康道さん。
私が電通の新入社員時に配属された
第4クリエイティブ・ディレクション局(4CD局)の
新人の能力開発担当者でした。
しかし、
仕事を教えてもらったことはありません。

代わりに、岡さんがキャプテンだった
社会人タッチフットボールチームに入れられ、
全国大会優勝を経験するなど、
その後の人生に役立つ多くのことを、
大きな背中で教えてもらいました。
詳しくは、こちらのコラムで。

もう一人は、矢谷健一さん。
私と矢谷さんとの生の記憶を
残したいと思います。

私が電通に入社直後(配属前)の
OJT研修先が4CD局でした。
当時、矢谷さんは、そこの部長CDであり、
研修で来た新入社員のクリエイティブ適性を
見極める面接官でもありました。

新入社員の配属先が決定する前に、
同じく面接官であった八木局次長と
クリエイティブ統括局(クリ統)に掛け合って、
私を4CD局に引っ張ってくれました。

配属発表の時、クリ統の伊藤さんに
「あなたは営業になりそうだったのよ」と
こっそり教えてもらったので、
矢谷さんの席へお礼の挨拶に行くと、
あのニヤリとした顔と
あまり目を合わさない話し方で、
「礼なんて、いいよ。
これから頑張ってください」
と返されました。
矢谷さんは、
CDという職種の人にしては珍しく、
人見知りで、照れ屋でした。

数年が経ち、
一緒に第2CD局に異動になった後から、
味の素などで、CMプランナーとして
指名して頂けるようになりました。
UFJつばさ証券の仕事では、
当時、日本で唯一、
2年連続でカンヌを獲らせてもらいました。

「獲らせてもらった」と書いたのは、
謙遜からではありません。
本当に矢谷さんのおかげだったからです。

UFJつばさ証券のプレゼン時、
矢谷さんが外部CMプランナーに
発注してつくった案がありました。
私の案は、ふざけ過ぎていると
担当営業からの反対もあり、
CDとしての矢谷さんは、
外部の方の案をイチ推しにすることになっていました。

しかし、矢谷さんは、
そのプレゼンに現れなかったのです。
その前に出席していた別件のプレゼンが延びて、
来られなかったのです。
「矢谷さん、来てくれるな!」と念じつつ、
私は、自分の案は熱心にプレゼンしました。
そして、そのふざけた案が通り、
2年連続のカンヌ受賞へとつながっていくのです。

もし、矢谷さんが現れていたら…
他の案を推されていたら…
今の私は無いと思います。

矢谷さんには、いくつかの美学がありました。
いつもYシャツにネクタイをして背広姿でした。
でも、髪型は台風の後のような
乱れ風なセットをしていました。

矢谷さんは、財布を持たず、
ズボンのポケットに小銭を入れていました。
たくさん入れている時は椅子に座ると、
ジャラジャラジャラ…と
よく落としていました。

ある日、飲みに連れて行ってもらった
静謐を味わうようなBARで、
背の高いスツールに座るなり、
ジャラジャラジャラ…
コンクリート床の店内に響き渡りました。

それらを拾って差し上げても、
「ごめんごめん」と笑いながら、
またズボンのポケットに入れるのです。
だから、帰りのタクシーでシートに座ると、
ジャラジャラジャラ…
全部を道路にぶちまけることになるのでした。
そんな時、慣れた私たち部下は、拾った小銭を
矢谷さんの背広の上着ポケットに入れるのでした。

矢谷さんは、手相を観ることができました。
しかし、女性の手相しか観ませんでした。
一度だけ、先の静寂バーで、
「観てあげるよ」との僥倖を得られました。
すごく当たるという噂だったので、
手を差し出して、ドキドキして言葉を待っていると、
「女性のものしか分かんないなぁ」と。

矢谷さんは、社内で「侍」と呼ばれていました。
外資系の広告会社でコピーライターをしていたとは思えないほど、
あまり語らず、人と群れず、上に媚びず、
おかしいと思った時には、
営業とも、スポンサーとも戦っていました。

味の素のほんだしの仕事で、
スポンサー決裁された案に対して、
樹木希林さんから直に私が説教をされた時、
「案を取り下げて、新たに案に行きたい」と
矢谷さんに申し出たら、「いいじゃん」と
なぜかうれしそうに笑いながら
背中を押してくれました。
今の広告会社のCDには、
こんな人はもういないと思います。
詳しくは、こちらのコラムで。

矢谷さんの字は、読めないことで有名でした。
どのくらい読めないかというと、
デスクに呼ばれ、メモ用紙を見せられ、
「これ、何て書いてある?
すごく大事なことをメモしたんだよ」と
自分で書いた字を自分で判読できないことが
日常茶飯事でした。

プレゼン前のCMコンテに赤字を入れてもらい、
読めないので訊いたら、
「俺は、何て書いたんだ?」と
訊き返されることもありました。
コピーライターの長谷川智子さんは、
矢谷文字の解読能力がどんどん高くなり、
矢谷さんから「先生」と呼ばれ、
しょっちゅう解読をさせられていました。

矢谷さんは、ドロンの達人と呼ばれていました。
(上空から映像を撮るドローンではありません)
夕方になると、
矢谷さんのデスクの上に書類が開かれたままで、
彼の愛用のペンが置いてあります。
行き先ボードを見ると、会議室になっています。
打ち合わせ中なのだと思って、
ずっと待っていても、
そのまま帰って来ないのです。
ほとんどの場合、
すでに退社して飲みに行っているのでした。

社内会議の時には、
矢谷さんはトイレに行くかのように、
資料を開いたまま、
ペンを置いて会議室を出ていきました。
そして、ほとんどの場合、
そのまま戻って来ないのです。
デスクを見に行くと、もう上着がありません。
毎回、見事なドロンでした。

昨夏、矢谷さんは、またドロンしました。
どこへ行ったかは、おおよそ見当がつきます。

矢谷さんに出会えたおかげで、
現在の私があります。
ありがとうございました。

小銭は、背広のポケットに入れて行ってくださいね。